誰に恋をしても誰と結婚をしても、忘れられない人がいる。



幸 せ は 祈 ら な い



 プロポーズされてから半年が経つ。にも関わらず薬指の指輪は未だ私の手になじまず、私は手持ち無沙汰になるといつもその指輪を回したり、外したりつけたりを繰り返してしまう。注文した紅茶が来るまでの十数分を私はそうやって過ごした。

「僕に気を使っているのなら、」
 骸は紅茶を運んできたウェイトレスににっこりと微笑みかけ、視線を私に移して言った。「その必要はまったくありませんよ、。君が誰と結婚しようが君の自由だし、僕の前だからといって指輪を外す必要もない」

「本来ならこういう報告もしてくれる必要はなかったんです。が幸せであるのか、誰と一緒にいるのか、元気にやっているのか ―― 離れてしまえば僕には関係のないことだ。僕はと別れてから一度も君の身を案じたことなどありませんからね」
「仮にも昔付き合っていた女なのに?」
「昔であって今じゃない。それだけだ」

 層雲広がる窓の外を眺める、骸の表情は穏やかだった。この手の雲が霧雨を降らせること、は知っていますか。私はそんなことは知らない。首をふって、同じように低い雲に覆われた空を眺めた。

「君は僕のそばにいるときだって愉快そうな顔をしたことはありませんでしたが……それにしても今の表情もひどい。幸せなんでしょう? 先ほども言いましたが僕に気を使う必要はまったくない。幸せならそういう表情をしていいんですよ」
「マリッジブルーっていうやつかな」
「クフフ、僕はてっきり、君が僕に未練を残しているのかと思いましたよ」
「私は骸と一緒にいて幸せを感じたことなんかほとんどなかった。まったく、とは言わないけれど、ほとんどね」
「そうでしょうねえ。僕は君を幸せにしようなどとは一度も思いませんでしたからね」
「知ってるよ。だから私は骸を選ばなかった」
「それが正解だと僕も思いますよ。しかし、」

 紅茶を飲んでカップを置いてしまうと、また手持ち無沙汰になって指輪をいじってしまう。私と違って骸は落ち着いた態度で、カップを手に取る仕草にも空を見上げる細めた瞳にも、骸がいつだって失わない品格のようなものがにじんでいた。

「僕はが、僕を心から愛していたことを知っているんです。君は僕を愛していた。おそらく今も愛している。しかし君は僕のそばにいたのでは幸せを得られないと判断し、他の男を選択した。それを間違っているなどと責めるつもりはありませんよ。しかし君は今、それほど幸せそうな表情をしていませんね。一番愛している男が幸せをくれなかったからといって、二番手の男 ―― おおかた幸せにしてやるだとかいうセリフを君に吐いたんでしょうね ―― それを選択して実際君が幸せになるかどうかには、甚だ疑問が残りますね」

 骸はこれほど饒舌な人だったろうか。でもね、と反論しようとする私を遮って彼は話をつづけた。

「愛する男を愛しつづけることよりも、幸せの可能性を一パーセントでも上げることの方が大切ですか? 君は自分の大切なものを大切にするにあたって、僕の出方を量るべきではなかった。僕がどのような態度をとろうと自分の気持ちに嘘をつくべきではなかった。僕を本当に愛していたというのなら、その気持ちだけを信じていればよかったんです。その気持ちだけで幸せだと、に思ってほしかったんですよ。愛情と客観的な幸せを量りにかけ、まして幸せの方を選択するなどしてほしくなかった。君は僕を愛している。なのに僕を選びませんでしたね。君は嘘をついている。嘘は君を幸せになどしませんよ。君が僕に一途であればあるほどね」

 テーブルに置かれた私の両手を救済するみたいに拾い上げる、骸の両手が温かかった。

「幸せになってほしいなど ―― 祈ると思いますか? この僕が? 僕の知らないところで僕ではない男と幸せになろうとする、そんなはとても認められそうにない。それくらいならこの手でを不幸にしようじゃないですか。……どうです? 僕が君をどれほど不幸に陥れようとも、それでもは僕のそばにさえいれば幸せだろうと、確信している僕を醜いと思いますか? たしかに僕のそばにいることは君にとって辛いことだったのかもしれませんね。しかしそばを離れることはもっと辛かったでしょう? だからこそ今頃になって他の男と結婚するなどと、わざわざ言いに来たんでしょう?」

 私の薬指から指輪が外された。一万ドルといったところでしょうねえ、骸が品定めをしてそう言ったから少し笑った。

にこういったパールは似合いませんね。ペリドットの方が似合う。の誕生石でしょう?」
「よく覚えてたね」
「思い出しましたよ。君は夏になるたびそう言っていましたからね」

 骸の指には立派な、立派すぎるほど輝くボンゴレリング。私がしていた粗末な指輪は紅茶のカップの中に落とされた。

「君は僕を愛している。君にとっての真実はそれのみだ。僕が君を幸せにしようがしまいが、君はそれだけを信じていればいい」

 私は指輪をなくした手で骸の手をしっかり握りしめた。誰に恋をしても誰と結婚を決めても、忘れられない人がいた。忘れられない人を私は今でも愛していた。