ぴちょん―指先から零れ落ちた雫は、大きな弧を水面上に描きながら刹那に消えていく。まるで夏の夜空に咲く花のように、瞬きをした瞬間に姿を消してしまう流れ星のように。微かな余韻だけを残して、跡形も無く消えてしまう。
キュ、蛇口を捻り、浴槽を一杯に満たしていた根源を止める。静寂に包まれたこの狭い空間は、私のお気に入りの場所だ。橙色の光、少し湿り気の帯びた空気、此処にある全てのものが自分を安心にさせてくれる。
竜崎がこの家を出て行ってから、3週間が経とうとしていた。急な仕事で1ヶ月ほどイギリスに行ってしまっているのだ。後2週間…我慢さえすれば、彼はまた帰ってきてくれる。短いようで、とても、とても、長い時間。時を刻む音を聞くのすら苦しくて、よく此処に逃げ込んできた。此処なら、時間を教えるものは何も無い。世界から隔離された、唯一の静寂な空間。
「会いたいなぁ…」
ポツリと呟いた自分の声に、少しエコーが掛かる。会いたい、と思う気持ちは、日に日に増していた。脳裏に浮かぶのはいつもいつも竜崎の溢れるような笑顔。その記憶すら、今は薄れてきてしまっている。あの人は、どんなふうに笑ってた?どんな声で、私の名前を呼んでいた?どういう風に、私に触れていた?
ああ、どうして。あんなに毎日一緒に居たのに、たった3週間離れてただけでどうして忘れていってしまうんだろう。人間の記憶というのは儚いものだ。確かなものなんて、決して残らないのだから。
しばらくバスタブの前に座ってぼうっとしてたら、誰も居ないはずの部屋から、微かに物音が聞こえてきた。竜崎…なわけが無い。だって、彼の帰国は今月末のはずだから。じゃあ、誰…?さっき買い物に出かけたときに、鍵を閉め忘れたのかもしれない。もし空き巣だったら、ナイフの一つや二つ持ってるだろう。ああ、私はきっと此処で死ぬんだ。竜崎と会えないまま、この、薄れてしまった記憶のまま。
足音は、此方目掛けてやってくる。なんの躊躇いも無しに。音なんて一回も出してないのに、なんで此処に居ることがわかるんだろう。
足音がドアの前でぴたりと止まる。私は覚悟を決めて、大きく目を瞑った。カチャリ―勢いの良い音を立てながら、バスルームのドアが開かれる。
「此処に居ると思いました」
ぴちょん―水面上に再び大きな渦が出来る。
「りゅ…ざき……?」
大きな輪を幾度も重ね、そして静かに消えていく。
「な、んで…?」
「仕事が予定よりだいぶ早く終わったので。…というよりも、終わらせた、の方が正しいですね」
そう言って竜崎は小さく笑みを浮かべた。私は、上げていた視線を、再び自分の指先へと移す。其処からはもう、雫が零れ落ちることはなかった。
静かに傍に寄ってきた竜崎が、後ろから包み込むようにして抱きしめてきた。身体を預けるように、私は後ろへともたれこむ。背中には、温かくて、懐かしくて、愛しい温もり。
「私が留守にしていた間、何も無かったですか?」
「…うん、大丈夫。いつもどおりだよ」
「…本当に何も?」
「うん、何も」
何か言いたげな彼を振り切って、はっきりと答えた。
…本当は淋しくて淋しくて、死にそうなほど苦しかった。あなたに会えないだけで、こんなにも弱ってしまう自分が居るなんて、今まで思いもしなかった。もう離れて欲しくない、そんなこと口に出してしまったら竜崎が困るだけに決まっている。絶対に、気づかれちゃいけない。泣くのなんて、もってのほかだ。
「」
耳元で、竜崎の声が響く。長い間聞いていなかったその声に、反射的に心臓が反応する。ドクン、ドクン―心音はただ速さを増すばかりだ。
「また無理をしていませんか?」
「してない、よ」
「まったくあなたって人は…。、此方を向いてください」
少し躊躇いながらも、私は言われるがままに後ろへ振り返った。彼は今どんな顔をしているんだろう。見てしまったら、私は感情を抑えきれなくなってしまうかもしれない。そう思ったら、やっぱり視線をあげられなかった。
竜崎の両手が私の頬を包み、くいっと顔を少し上げられた。その瞬間、はっきりと彼の視線とかみ合う。黒くて、澄んだ、大きな瞳。なかなか目を逸らさせてはくれない不思議な力を持つ彼の瞳は、自分が今までずっと欲していたものだった。
「淋しかったっ…」
もう何も考えられなかった。まるで緊迫の糸が切れたみたいに、次々と言葉が溢れてくる。
「淋しくて、淋しくて死にそうだった…。竜崎のこと、忘れていってしまいそうで、恐かったっ…」
「……」
「あなたの傍を離れるのなんて、嫌だよ…」
そのまま竜崎の胸へと顔を埋める。この細い身体も、匂いも、温もりも…此処にある、確かなもの。それを感じられるだけで、不思議と凄く安心出来た。竜崎の手が、少し力を込めながら、再び私を包みこむ。
「、愛しています。…もう二度と、あなたを離さない」
「っ…りゅう、ざき…」
少し熱気の帯びた空間で、私達は時間も忘れて何度も抱きしめあった。重ねた唇は淋しさを埋めるように、交じり合わせた身体は離れて居た時間を忘れさせるように。このやりきれない想いを、全て突きつけるようにして、何度も互いを求め合った。
ああ、いったい私達は何処まで堕ちて行けるのだろう。
いっそ、このまま二人で一緒に、消えてしまおうか。
水
面上の輪を辿るように