起きてからまだ時間はあまり経っていない。まずは眠気覚ましにコーヒーを一杯、目が冴えてきたところでクローゼットからお気に入りのワンピースを取り出し、頭からそれをすっぽりと被せる。鏡に写る華やかな柄のそれと、寝不足で疲れきっている酷い顔は(よく見れば目の下に隈が出来ている)あまりに対称的過ぎて、思わず大きな溜息が漏れた。
(よりにもよってこんな酷い顔の日に会うなんて…)
そもそも寝不足となってしまった原因はあの男にある。一年前に部屋を出て行ったっきり全く音沙汰が無かったのに、昨日非通知の電話を取ってみれば案の定「元気ー?」なんてまるで何事も無かったかのように喋るものだから、何だか怒る気も失せた。本来ならば、バカヤロウの一言でも言ってやりたいところだが、それは会ったときの楽しみにとっておこう。
腕時計を見れば、まだ待ち合わせ時間より15分も早かった。マットは来てないだろうなぁ、そんな事をぼんやり考えながらも、昔の記憶を一生懸命引っ張り出す。付き合っていた頃にマットと良く来ていたコーヒーショップ。私達はいつも決まって奥の席に座り、お互い違う煙草を吸いながら他愛も無い会話を楽しんだ。あの頃は、こんな風になるなんて思ってもみなかったんだよなぁ…。
コツ、コツ―今日はヒールの音がやけに響く(きっと朝で人が少ないからだ)。歩を進める度に、時計の針がぐるぐると巻き戻される。あの頃の記憶が何だか現実味を増していくようだ。
「」
名前を呼ばれてぱっと顔を上げた瞬間、奥のテーブルの席にマットの姿が見えて、何だか不思議な感覚に陥った。これは記憶の中の彼?それとも現実?私は、幻覚でも見ているのだろうか―?
「おーい大丈夫?座んないの?」
「…す、座ります」
コホン、と一つ咳払いをして、少しの間タイムスリップしていた自分を急いで呼び戻し、マットの向かい側の席に腰を下ろした。まさかこんなに早く居ると思わなかったので、心の準備が整っていない私は緊張のあまり顔が強張ってしまっていた。
「相変わらず変わってないよなぁ。待ち合わせ時間より早く来ちゃうトコとか」
「…そ、それより、マットが早く来るなんて珍しいじゃない」
「当たり前だろー?早くちゃんに会いたくてさ」
「…ばか」
ポツリ、ポツリ、と思い出話に花が咲いていく。目の前には、大好きだった彼。一年経った今でも、傍に居るだけでドキドキする。マットも同じ気持ちで居てくれてるのだろうか―。なんて、そんなことあるわけないか。
コーヒーショップを出た後、私達は近所を散歩した。よく立ち寄った本屋さんとか(久しぶりに二人で行ったから、仲の良かった店長がびっくりしてた)、マットに連れられて行ってたゲームセンターとか、日が沈むまで遊んだ公園とか。オレンジ色の光に溢れた其処は、まだ野球をしている子供達で賑わっていた。
不意に足元に転がり込んできた野球ボールをマットが拾い、それの持ち主に投げ返した。野球帽を被った少年はペコリと頭を下げ、元の場所へと戻って行く。
「前も子供達に混ざって野球とかサッカーとか、色んなことやったね」
「一人生意気なガキが居てさ、何か知らねぇけどいっつも俺に対抗してきたよな」
「あー居た居た。マットったら負けず嫌いだから子供相手に本気になっちゃってさ」
「だってアイツを好きだとか言うんだぜ?百年早いっつーの」
「ちょ…そんなの真に受けてたの…?」
「おう」
「ばっかじゃないの?」そう言って、私はマットに背を向けた。ひょっとしたら、声が少し裏返ってしまったかもしれない。だって、嬉しかったから…マットが、そういう風に見ててくれて、凄く凄く嬉しかったから…。
マットが子供達とじゃれ合ってる間、私は公園の脇にあるベンチへと腰掛けた。西の方角では、視界一杯に広がる大きな太陽が、綺麗な丸い形を削っていこうとしていた。
本当にゆったりと時間が流れていく。まるで、雲の流れのように―。
不意に肩に重みを感じ、何だろう、と思って横向いたら、マットの頭が肩にもたれ掛かっていた。(何時の間に来たのだろう)彼の髪がさらっと頬に触れ、少しくすぐったかった。
「どうしたの?」
「…ちゃんの子供、見たいなぁー」
「子供って…何年先の話よ」
「お前に似たらきっと大変だろうな。鈍くさくて、そのくせ気が強くて、小せぇ事でもすぐ怒るし」
「む…」
「そんで強がりで、意地っ張りで…泣けば可愛いのに俺の前でも無理しちゃってさ」
「………」
「ばいばーい」大きな声を轟かせながら、子供達は足早に帰っていく。
気づけば夕日は半分くらい姿を隠していた。
「…マットに似たら、きっと人気者になるね」
急にガバッとマットが起き上がったので、びっくりして思わず防御の姿勢を取ってしまった。何か変な事言ったかと思って頭の中で会話をリピートしてみたけど…でも、別に気に障るようなこと言ってないよね?
「それ本気で言ってる?」
「え…何が…?」
「だって俺頼りないよ?俺との子供でホントにいいの?」
「え…あの…」
「うん」
マットの視線が熱い。顔が火照ってるのが自分でもよくわかる。
「ていうか…マット以外に考えれない」
「マジで!」
ぎゅっ、とマットの腕に抱きしめられて、胸の高鳴りが最高潮に達した。この人の腕に抱かれてるときが、一番安らげる。大好きな、大好きな、彼の温もり。
私も彼の背中に手を回し、きゅ、とシャツを掴んだ。
「俺達、幸せになろう」
彼の言ったその言葉は、他のどんな言葉よりも胸に響いた。
まるで、太陽の光に溶け込んでいくように―。
陽だまりの中に夢を見る