トントン
散らばった教科書やノートの束を掴み、机の上で叩いて平らにする。教科書の影から授業に飽きて書いた落書きが、ひょっこりと顔を出した。普段は落書きなんて、しないのに。
マットの居ない授業は凄く静かで、平和だ。だけど、やっぱり何処か淋しかった。
後ろの席から紙飛行機を飛ばしてくるマットはもう居ない。メロとつるんで、いつもいたずらをしてきたマットはもう居ない。自分の隣には、いくら目を凝らしたってマットの姿が映る事なんて無かった。
マットは私を置いて、この施設を出て行ってしまったから―。
あの頃の私達はあまりに幼すぎた。それゆえに最悪な別れ方をしてしまった。きっと、これからずっと後悔しても、その念が已む事は無いと思う。
何であの時引き止めなかったんだろう。
何で意地を張ってしまったのだろう。
"何で"を言い出したらきりが無い。箇条書きにしたら100個以上ありそうだ。だけど、もう過ぎてしまった事はどうしようもなくて。マットに「好き」だと伝えることもなく、終わってしまった。
何て浅はかな考えだったんだろう―。
「。お前何怒ってるんだよ」
「…別に。怒ってないってば」
「怒ってんじゃん。なぁ、俺何かしたか?」
「…もう!五月蝿いなぁ!」
バシッ―と読んでいた本を投げつけた。それは見事に彼の身体に命中。マットは驚いた表情で立ち尽くしていた。
本当は、怒ってるんじゃなくて、哀しいんだ。マットはもうすぐこの施設を出て行ってしまう。一流組織に、彼の射撃の腕を認められたからだ。それを嬉しそうに報告してくるマットに少し腹が立った。
だって、離れ離れになるんだよ。もう、二度と会えないのかもしれないんだよ。
それなのに。
マットはこれっぽっちも気にしてる様子は無かった。
「マットなんか、さっさと行っちゃえばいいのよ」
嘘を吐いた。自分さえも、欺いた。
こんな事言いたいわけじゃない。私が伝える言葉はもっと、他に、沢山。沢山あるのに―。
「…わかったよ。今すぐ出て行ってやるよ!」
マットの怒鳴り声が、辺りの空気を振動させた。バタン―。あの時力強く閉められたドアの音が、今でも耳に残っている。最後なんて目も合わさずに、マットはそのまま施設を出て行ってしまった。
ひたり、ひたり―。
廊下には自分の足音だけが響く。ずっと奥まで続く、長い長い一筋の道。真っ白な世界の先には、はっきりと終点が見えている。だけど、私にはそれが遥か遠くにある気がしてならなかった。背中を押してもらわなければ、進めないのだ。手を引いてもらわなければ、動けないのだ。マットはもう先に行ってしまったのに、自分だけ、此処に取り残されてしまった。
ピタリと歩を止め、ふと視線を窓の外にずらした。
陽気な声を漏らしながら、サッカーをしている施設の子供達の姿が瞳に映った。この施設は比較的外で遊ぶ子の方が多い。引きこもりがちだった私も、よくマットに連れられて遊んだものだ。今はまた元の生活に戻ってしまったけど…。
そして、そのまま、遠くの方にピントを合わせた時。
信じられないものが目に飛び込んできた―。
「え…うそ…」
少し遠くにある、大きな木。その木の影に、人影らしきものが見えた。赤茶色の髪に、ボーダー柄のシャツ。いかにも"誰か"を連想させるその人は、煙草を吹かしながらも、ぼんやりと空を眺めていた。
嘘だ。有り得ない。
何でマットが此処にいるの?
気づいたら、もう走り出していた。抱えてたはずの教科書は何処かに消えてしまっていて、(きっと無意識のうちに何処かに置いてきたのだろう)途中で靴が脱げたけど、そんなのお構いなしに走り続けた。
異常なほどの胸の高まりが、抑えきれない。
ドクン、ドクン―。
息を切らしながら、胸を高鳴らせながら、ゆっくりと彼に近寄る。背が伸びて、雰囲気も大人っぽくなったけど、やっぱりそれはマット以外の誰でも無くて。走ったからか、緊張してるから、トクトクと心音は増すばかりだった。
私に気づいたマットが、顔を此方へ向ける。ゴーグルの奥の瞳と、カチッと目が合った。
「…久しぶり」
「本当に、マットなの…?」
「ははっ。俺以外に、誰に見えるんだよ?」
変わらない笑顔。変わらない声。
もう二度と、会えないのかと、思ってた。
「どうして此処に居るの?」
「ん、ちょっと懐かしくなっちゃってさ」
「…そっか」
マットがあまりに哀しそうな顔をするものだから、自分まで哀しくなってしまった。また直ぐ出発してしまうんだろうと思うと、キュ、と胸が締め付けられた。駄目だ…マットの顔がまともに見れない。
「」
「何っ…」
私が足元からマットの顔へと視線をずらしたその瞬間。空中を彷徨っていた手を引っ張られ、キスされた。唇に感じるぬくもりは、マットが確かに此処に居るって言う、証。それを実感した途端、瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「ずっと会いたかった」
耳元で、マットの声が響く。ゾクゾクと、まるで体中に電流が走ってるかのような感覚に襲われた。マットは、零れる涙をぺロッと舐め、そして首筋から耳の裏へと、ゆっくりと舌を這わせた。私はその行為に耐え切れず、小さく肩を竦めた。
「やっ…マ、ット」
マットは私の髪を掻きあげると、耳たぶを食いつくようにして舐め上げた。ゾクッ―また、身体が反応する。その反応を楽しむかのように、ちゅ、と音を立てながら首筋に跡を付けて行く。これだけで感じてしまう私はおかしいのだろうか。耳元で吐かれる息が、脳の神経をくすぐる。呼吸をする間隔が短くなる。胸が、苦しい。
このままだと、どうにかなっちゃいそうだ―。
「いやっ…」
限界ギリギリのところでマットの身体を両手で押して遠ざけた。首筋の、吸い付かれた部分がヒリヒリする。耳元にはまだ、先ほど囁かれた言葉の余韻が残っていて。恥ずかしさのあまり、やっぱり、顔を上げられなかった。
「俺さ、本当は後悔してたんだ」
力いっぱい押したつもりだったのに、再び意図も簡単にマットの腕の中に押し込まれてしまった。さっきより抱きしめる力が強い。いくら押してもびくともしなかった。
「気づいたらの事ばかり考えててさ」
「…うん」
「あれが、最後なんて絶対嫌だと思ったんだ」
「うんっ…」
「…お前を失うのが怖い」
駄目だ。涙腺の調子がおかしい。目の奥が焼けるほど熱い。涙が滝のように、次々と溢れてきて。マットの胸に顔を埋めながらも背中に手を運び、服をきゅ、と掴んだ。
「馬鹿だなぁマットっ…。私、ずっと待ってるよ…?」
「…次いつ帰って来れるのか、わかんないんだぞ?」
「それでも。信じて待ってる…」
ずっと、心の奥にしまわれていた気持ち。
伝えたくても、なかなか伝えられなかった言葉。
苦い思い出が、甘い思い出に変わる瞬間。
「マットが、好きだから」
そう言って、今度は私からキスをした。
長く長く続く、一本の道筋。この先に何があるかなんて、誰にも、自分さえもわからない。だけど、ただ一つはっきりしてるのは、マットは、何があっても絶対にまた戻って来てくれるってこと。だから、私は此処でずっと彼を待ち続けるのだ。
君が、私の中で生き続ける限り―。
木漏れ日、陽だまり、君の声
2006/5/19
TITLE BY 酸性キャンディー